今日は、二限が農学部の授業。授業が終わってお昼に学食へ行こうかと思ったのですが、農学部のある弥生の学食は混むのですよね。だからと言って、本郷に戻っても…。
と言うことで、ちょっとお昼は贅沢にアブルボアへ。 前回は加賀カレーを食べたのですが、今回はここのウリのおこわを食べることに。 ![]() しかも、季節ならではのマツタケおこわ! しかもしかも、季節感タップリの銀杏入り!! しかもしかもしかも、大好きな海老フライにはタルタルソース!!! これで850円。ただ一つ残念だったのは、次の授業との兼ね合いで15分ほどで食事を済ませなければならなかったこと。できれば1時間位は粘ってたかったなぁ(笑) さて、お昼を挟んだ三限は解剖の授業。今回は、グループ毎に箱の中にバラバラになって入っている本物の人体の骨格標本を用いて、骨格を再現させながら人体への理解を深めるという授業。 教育学部の教室でこれを行うと法律に触れるとのことで、医学部へ移動。 以前、鍼灸の学校に通っていた時に、一度だけホルマリンに漬けられた人体の標本に触れた事はあったのですが、今回のように骨格標本に、しっかりと触ったことはありません。 先生は、骨を見ていると中原中也の詩集「在りし日の歌」の中の骨という詩が浮かんでくることがあるとおっしゃっていたのですが、骨を撫でながら、その人の人生を思い浮かべると、色んなことを考えてしまいます。 もちろん、私もそんなに遠くなく同じような状態になります。鍼灸の学校に通っていた頃には、まだ死が怖かったのですが、最近では、もうじきお仲間ですねって普通に思えたりするのが、年をとったということなのかな。 中原中也 在りし日の歌 骨 ホラホラ、これが僕の骨だ、 生きてゐた時の苦労にみちた あのけがらはしい肉を破つて、 しらじらと雨に洗はれ、 ヌックと出た、骨の尖(さき)。 それは光沢もない、 ただいたづらにしらじらと、 雨を吸収する、 風に吹かれる、 幾分空を反映する。 生きてゐた時に、 これが食堂の雑踏の中に、 坐つてゐたこともある、 みつばのおしたしを食つたこともある、 と思へばなんとも可笑(をか)しい。 ホラホラ、これが僕の骨―― 見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。 霊魂はあとに残つて、 また骨の処にやつて来て、 見てゐるのかしら? 故郷(ふるさと)の小川のへりに、 半ばは枯れた草に立つて、 見てゐるのは、――僕? 恰度(ちやうど)立札ほどの高さに、 骨はしらじらととんがつてゐる。 すでに、中原中也さんの詩は著作権が切れている為、青空文庫にて公開されているものを用いさせて頂きました。 中原中也と言えば、私は昔「汚れちまった悲しみに」に妙に惹かれたなぁ。 |
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